レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    異郷の土を踏む

    あてもなく仁川へ上陸 同郷人に雇われ、お雪の死を知る

     いまから思えば全く無茶である。満州へいく、といったところで別に当てがあるわけでもない。しかし狭い日本にじっとしてはいられないほど私の野心は並みはずれて大きかったのだ。私は二十五歳であり、時代はちょうど日露戦争直後。資本主義の青春期を迎えた日本の目はようやく大陸へと開け始めたころであった。一定の職のない者、仕事にあぶれ、生活に敗れ、ひと旗あげたいともくろむ人たちにとっては、満州は期待にみちた新天地だったのである。そんな意味で、私も時代の子であったのかもしれない。

     お雪との生活の思い出を残す世帯道具をいっさい売払い、私は御堂筋で二円のカーキ色の兵隊服を買い、竜田川丸に乗込んだ。めざすは満州だが、あり金をはたいてやっと手に入れたのは仁川までの切符。あとは無一文だが、どうにかなるという気持だった。焦げるように暑い夏の最中だった。竜田川丸の甲板に立って思い出深い安治川を離れるとき、さすがに涙が流れた。

     生きて帰れるかどうか。舷側では顔見知りの石炭仲仕たちが、 船の中で荷役している。一人が私をみつけ、私を見上げながら威勢のよい声で呼びかけた。

     「おーい、栄吉つぁん、どこへ行くんや……」
     私もなつかしさに胸いっぱいになり、手を口にあてて答えた。
     「満州へいくんだぁ……」
     「しっかりやってこいやあ……」

     われもわれもと手を振って別れを惜しんでくれる。夜になって陰気な三等船室に帰って、ひざをかかえながら考えた。一枚の紹介状もなく、もちろん知人もいない。金は仁川までの切符で全くなくなった。船が進むにつれて気は滅入るばかりである。

     私はふと隣の話声に気がついた。十七、八のきれいな娘をつれた五十格好の婦人が、私同様眠れぬのか、娘とぼそぼそ話をしている。私もきっかけを見つけて話に加わった。聞けば婦人の夫が仁川にいるとか。私の心にはぽっと小さいがあたたかい灯がともったような気がした。無一文で知るべもない私は、この機会をのがしてはならないのだ。自分の境遇を納得してもらえるように、しかも多少の同情を引くように打ちあけ、結局上陸したら彼女たちの家へ泊めてもらえる口約束を得たのである。ほっとした私は、初めて足をゆっくり伸ばし、ぐっすりと寝込んだ。日本海海戦で沈んだロシアの軍艦、ワリヤーク、コレーツがその残がいをさらす月尾島(げつびとう)をすぎると仁川の港である。波止場には白い服、黒い高い帽子をきた朝鮮人たちが、長ぎせるをくわえてのんびりと座っている。青い空。仁川の町のうしろには白っちゃけたゆるい丘が横たわって、なんとなく神戸に似た風情である。

     初めて踏む異郷の土に、ふととまどいを感じたが落着く先があるので私の心は案外軽かった。しかし連れられていってみると、婦人の家は路地の奥の二階住い。亭主は人力車の車夫である。夫婦の方では娘の養子にするいい男を拾ってきたつもりなのには弱った。世話になっているうち、本町の山路という雑貨屋が私の同郷であるのを知り、これ幸いと身を寄せることになった。

     この雑貨屋では私は番頭格ということだったが、ひどく追い使われた。ここにも十九になる実に美しい娘がいた。先代の梅幸にちょっと似ている。しかし気の毒にもこの娘はオシだった。店の方でも私をこの娘の養子に、と考えていたらしい。彼女の方も私にひそかな好意を寄せているらしいのは、そのそぶりでわかった。

     そんなころ。お雪の兄から彼女が旧の五月七日に死んだとの知らせを受取ったのである。私は思わず店を走り出て港にいき、波止場の石に腰かけてその手紙をなんどもなんども読み返した。とうとう死んだのか。あのとき親もとへ着て帰ったあわせが、おれが買ってやったたった一枚の着物だったが……と思ううち、せき上げる涙をどうすることもできなくなった。成功して帰り、お雪を迎えにいくのが、ここまできた目的の一つでもあったのに……。しかしお雪の死は私をかえってはやり立たせた。お雪のとむらい合戦にでも出かけるように、再び一人ぼっちになって私は、つるから放たれた矢となって、京城をさして突っ走ったのである。