レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    京城へ移る

    残飯で飢えをしのぐ 人夫、居候、「ふ屋」職人

     仁川から汽車に乗り、京城の駅におり立った。例によってなんのあてもない。駅前でぼんやりしていると、電車がやってきた。私はふらりとそれに飛乗った。電車が動き出してから、車内をひとわたり見回すと、私の筋向かいに一見請負人らしい親分ふうの男が座っている。私はその男に近づいて声をかけた。

     「つかぬことをおうかがいしますが、京城のキリスト教会はどこにございますんでしょうか」

     男はぎょろりとした目で私を見た。もちろんキリスト教会は、話のきっかけを作る口実である。この作戦は成功した。結局私はその男の家に世話になることができた。男の名は大宮定吉と言い、私の推察通り大漢土木公司の親方であった。与えられた仕事は京城市の東南の竜山にある漢江の河原に出て、朝鮮人のバラスとりの監督をするのである。朝鮮語で「オソオソ」、つまり早く早く、とせき立てながら監督するわけだ。だがこの仕事はかげひとつない炎天の河原で一日中立っていなければならない。なれないことでもあり、精神、肉体の両方から襲ってくる疲労で、私は日射病にかかって寝込んでしまった。とうてい土木のような激しい仕事は向かないとあきらめ、体が回復するのを待ってふらりとここも抜け出したのである。

     数時間あてもなくうろついているうちに、私は竜山の度司部(たくしぶ=造幣局)のあたりまできていた。みるとアン巻きを朝鮮人に売っている鼻の欠けた日本人らしい男がいる。私は近づいて声をかけた。聞けば男の生れは新潟県だという。異郷の果てに落魄(らくはく)の身の二人である。話合ううちに、しみじみとお互いに心のふれ合うものがあった。

     「行くところがなければ、私のところへいらっしゃい」男はそういってくれる。まっ赤な大きな夕日が西の山の端に傾くころ、アン巻きの道具を背負った男とふろ敷包みを下げた私は、広い京城街道をとぼとぼと歩き出した。

     こうしてアン巻き屋の男に連れていかれたのは、加藤清正が朝鮮征伐のときに建立したといわれる「蝋石の塔」の近くだった。彼の住家は朝鮮人でも最下級の人が住んでいる低い倉庫のような建物の一室である。

     しけている。朝鮮人特有のにんにくのにおいの混ったなんともいえぬにおいが、むっとただよっていた。私はその男と二人、たたきの上にアンペラを敷き、ドンゴロスの袋をかぶって寝苦しい一夜を明かした。

     アン巻き屋の男は朝早く起きて、出かけていったが、間もなくバケツに麦半分の冷飯をぎっしり詰めて帰ってきた。三銭で軍隊の残飯を買ってきたのだという。私たちはこれに塩をかけて食った。バケツ一杯が一日分の食料なのである。朝飯後、男はまたアン巻きの道具を背負い、私を部屋に残して商売に出かけていった。一人残され小窓をのぞくと蝋石の塔が見える。あらためて部屋の中を見回すと、ふとん代りのドンゴロスの袋、食器に使うゆがんだバケツ……。旅路の果てのどん底の生活だ。私には、人間がどんなことでもできる。いかなる悲惨、困窮にも耐えられる強い忍耐心を天からさずかっているように思えてくる。いよいよ食えなくなれば、住来へ大の字に寝ころんでやろう。三日ぐらい食わずとも死ぬこともあるまいと私はこのどん底の生活に、すっかり捨て身になっていた。私はここで三晩明かした。そして男が商売に出かけたあと、お礼の置手紙を書いてその部屋を後にした。

     京城の南大門まで来ると町角の小さい「ふ屋」に男入用と書いた札がかかっている。とにかく眠る場所と食べる物がほしかった。私はためらいもなく飛込んで頼み込み、やっと雇ってもらうことができた。しかしここも続かなかった。私は仲間を相手に雑談するうち、つい気炎をあげてしまったのだ。

     「人間手足を労しただけの報酬なんて知れたものだ。おまけにここなんざあ、安い賃金でこき使いやがる……」これが主人の耳にはいったからたまらない。「とっとと出てうせろ」と、どなられっぱなしで店をほうり出された。

     なけなしの全財産、銅貨まじりの二、三円の金をにぎりしめて、私は水原まで汽車に乗った。しかし駅に立って考えると二、三円の金ではどうにもならない。がっかりと肩を落して私は、駅の外の町へとぼとぼと出ていった。