レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    お雪のこと

    「ぼんや」舞台に逢う瀬 夢破れ、心を鬼にして別れる

     お雪はぽっちゃりとしたかわいい娘だった。人力車の製造販売をやっている稲葉という人の養女で、私より二つ三つ年下の二十前後だったろう。私は三味線を習いに通うお雪とよく会った。そしていつとはなしに、あみだ池の「ぼんや」で人目を避けてしのび会う仲となっていた。「ぼんや」というのは、玄関をはいるとすぐ二階へ上がる階段がついていて、二階の座敷の壁には小さな穴があいている。二人連れが上がると穴から盆に乗せたお茶が出され、お客はお休み代として二十銭を盆に置く仕組みになっている。いまの連込み宿の元祖みたいなものだが、顔を見られることもなく、なかなかいいものだった。

     お雪は気のやさしい従順な女だったが、私はちょうど石炭屋に見切りをつけたころで、一時身をかくす必要もあって二人でかけ落ちして京都へ出た。当時のことばでいう「自由結婚」である。

     京都へ出たお雪と私とは出町のかなり大きな家を安い家賃で借りた。なにか不吉なことがあったとかで、借手がつかず、そんなことから安かったのである。もちろん私たちはそれを承知で借りたわけだ。お雪はここで大学生相手の下宿をはじめ、私は私で近郊の牧場にむぎぬかとか、ふすまを納めるまぐさ屋を開業した。この下宿屋にいて、私の持って帰る牛乳と生卵ばかり食わされていた帝大生の一人に、菊池亀三郎という独法科の学生がいた。のちに日本銀行で重要な地位につかれたとの話もきいたが、この牛乳と卵攻めにはずいぶん閉口されたことだろう。お雪はそれをいつも気の毒がっていた。こうして共かせぎを続けたが、どうも下宿屋は思わしくない。大きな家を持てあましてきたので、西洞院七条下ル堀川の小さな家へ移った。ここで細々とまぐさ屋を続けたが世帯は苦しく、私は気息えんえんの有様である。ちょうど明治三十七年、日本がロシアに宜戦を布告した年で、日露戦争の歌が町に流れる戦時気分のみなぎった時代であった。

     しかし住みなれた大阪はやはり恋しい。私たちはまもなく京都を引払って大阪へ帰ってきた。大阪へ帰ったものの、私たちはまず食わねばならなかった。とにかく幸町一丁目の桜川の川っぷちにささやかな家を構えたが、お雪と一つのパンを分け合って食べる貧しさである。食うに困ったあげく、住吉橋の中川末吉という知合いの人の世話で雑殼商の仲間入りをさせてもらった。まぐさ屋もはじめ、かたわら酒、しょう油も商ったりした。まぐさは夏の暑い盛りでも、お雪が後押しする荷車を引いて天下茶屋の牧場へ売りにいった。地道な生活だった。

     ある日、郷里で県会議員をやっている兄が、山高帽などをかぶり、大きな顔をしてやってきた。弟の家に泊って大阪見物を、とでもいうつもりだったのだろう。いろいろ話をしているうちに食事どきになった。「おい、飯たけ」私がいうと、お雪はこっそり障子のかげから、米びつをふって底をみせた。からっぽなのである。「飯たけ」私はそしらぬ顔をしてどなると、お雪はやがて外へ出ていった気配である。やがて帰ってきたときには米の一升も袋に包んだのを持っている。あとできくと、髪の道具を質において米を買ってきたという。お雪はそんな女だった。

     けれどこうした無理な生活がたたったのだろう。お雪は病気がちで、赤手拭にある病院に通っていたが、とうとう寝込んでしまった。金はなし、女房に寝込まれ、私は意気消沈、地道いっぽうの仕事にもあき、まぐさ屋もわずか数ヵ月で廃業である。時代は明治三十八年、日露戦争も終りを告げたころである。世間はさわがしく、東京では日比谷原頭の焼打ち事件、神戸では伊藤公の銅像を倒し、その首になわをかけてひきずり回す騒ぎもあった。民族の青春時代の、若々しい怒りの爆発だったのかもしれない。

     おりもおり、日露の役に出征していた次兄が戦傷がもとで病死、同年輩の知人が常陸丸で戦死したことなどをきくと、私の若い血も躍り始めた。「そうだ 満州へでも行ってひと旗あげてやろう」と思い立った。身を捨ててこそ浮ぶ瀬もある。だが病気のお雪に「きっと成功して迎えにいく」と困果を含め、実家に帰すのはやはりつらかった。自分をはげまし、心を鬼にした。しかしこれがお雪との最後の別れとなった。幸福にしてやれなかっただけに、いまでも心に残るお雪だった。