レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    浮草ざんげ

    二十過ぎで通人気分 芸者とかけおち一週間

    二十三歳 石炭屋をやめるころ

    二十三歳 石炭屋をやめるころ

     二十歳をこえていた私は、もちろんすでに女の味は知っていた。たしか板問屋の俵松にいたころだったろう。店の若いものがいかにもおもしろそうに女遊びの話をしているのを聞いて、意を決して新町の女郎屋に上がったことがある。初心(うぶ)の私は女の顔をまともに見られないほど照れていた。そして「こんなことがなんでおもしろいのやろ?」と不思議にさえ思ったものである。しかしそのつぎの夜、もう一度新町へいって「なるほど、ええもんや」と早くも納得して帰ってきた。

     石炭屋の外交を始めてからは、売込みも取立ても人一倍の働きだったから金の方も多少は回った。で、夜になると仲仕の兼助の手引きで松島へ「浮かれ節」を聞きにいったり、くるわへ繰込んだりするひとかどの通人気どりだった。商売仲間のなかにも一、二の遊び友だちもできた。

     私は鳥居商店から山本峰一の店へ移っていたが、遊び仲間の一人が店の金を使い込み、私が自分の店の金で才覚してやったところ、その男はそのまま出奔してしまった。バカをみたのは私だが、仕方なくほかから借金して弁済し、主人にあやまってその店も出た。

     これを機会に、ひとつ独立して石炭ブローカーをやってみよう、という気になった。家も安治川一丁目のげた屋の裏に月四円五十銭で借りた。四畳と三畳の二間だけの長屋で路地のまん中あたりに共同便所がついている。

     男のひとり世帯である。ここへは北の芸者がよく遊びにきた。その中のひとり、およしというのをじょうだんに家の中へ閉じ込め、外からかぎをかけてほっておいたところ、その女は尿意をもよおして辛抱できず、床の間の花立てに用を足してしまった。

     商売に門司へいって宿の女中をくどき、あくる日まっ昼間の波止場で「ゆうべの約束をどうしてくれる」とそでにとりついて泣かれ、大弱りしたこともあった。

     けれども、ここらで身を固めて出直さなければとまじめになって考えもした。第一、家を借りたからには家事をみてくれる女もほしい。そんなとき、得意先のアスベスト会社の支配人が女房の話を持込んだ。

     「家の女中の妹ですてきな女がいるんやが、どや、ひとつもろてみいへんか?」

     「すてきな女? ほんなら、もらいましょ」
     ふたつ返事である。早速五円の結納金を出してふろ敷包み一つと、鏡つきの花嫁をもらったが、どうしたわけか、そりが合わず、結局五円の手切れ金を出して間もなく別れてしまった。こうした間にも芸者の出入りは続き、むしろこの結婚生活で私の茶屋遊びは拍車をかけられた形であった。

     北の芸者小勝の親から「井上さんは将来見込みのある人だから、身代金は手形でもかまわない。娘をもらってほしい」という奇妙な申出を受けたのもこのころである。

     それからだいぶたって、小楽という若い芸者にもなじんだ。しかし一時は石炭界で「切れ者」の評判をとった栄吉も、放らつな生活がたたって落目だった。女に私を連れてどこかへかくまってくれ、といわれ、やけ気分も手伝って、別にほれたわけでもないのに、かけ落ちする気になっていた。女のちりめんの長じゅばんを持出し、知合いの清津湯にかくまったが、たった一週間でみつかってしまった。たたき売った長じゅばんから足がついたのである。私は婦女ゆうかい罪だとおどかされ、小楽の一週間分の花代として二十七円あまりも巻上げられ、それでも足らぬので下げていた銀時計まで持っていかれた。分別のない青年のうぬぼれ心には、当然のお返しだったのである。

     一方商売の方はいよいよいけなくなっていた。足が元手の稼業なので、人力車の代金がかさみ、この支払いが苦の種になった。借金で首が回らず、ついに顔を上げて町を歩くのさえ気がとがめ出した。妙なもので、広いはずの世間がまるきり狭く思えるのである。

     私は考えた。「たとえ雑草でもいい。もっと大地に根を下ろそう」と。ここで身を転じ、石炭屋よりも、地道な商売を選んでまじめにやろう、という気になった。そこで割合い続いた石炭屋もこれで打切る決心もついた。私は二十三歳。そのころ私は、いまでも心に残るお雪という女と知り合った。