レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    安治川の栄吉

    抜けがけ入札で成功 「からふご」で汽船がエンコ

     石炭屋を商売に選んだ理由はいろいろある。まず第一に石炭は事業界における米のようなもので、必要欠くべからざる存在である。次に石炭を扱うのは石炭仲仕というものがいて、店員は自分の手をよごさなくていい。いわばブローカー業である。ひどい労働で疲れ切っていた私は、いくぶん肉体労働にはうんざりしていた。

     石炭屋は大阪の安治川あたりにかたまっていたので、俵松にいる間から、使いにやらされるたびに安治川の近くの口入れ屋には当っておいた。仕事を始めるときの用意に、ひまをみて四十八種類もある石炭の銘柄も暗記した。

     それほどまでにあこがれていた石炭屋になれるときがきた。九条新道の辻尾商店という石炭屋兼回漕問屋の店で、でっちが一人いる話がはいったからである。俵松には国へ帰るといってひまをもらい、飛び立つ思いで早速出かけていって雇われた。ここでは私は「栄吉」と名づけられた。十八歳のときのことである。

     「こんどこそは石炭屋でえろなってみせたるぞ」私は大いに張切った。しかし惜しいことには、この店は木津のふろ屋の取込み詐欺にかかり、あえなく閉店のうき目にあった。私は出入りの仲仕兼助の世話で、同じ石炭屋の長谷川合名会社社長、長谷川忠七氏のもとで働くことになった。給料などは眼中になく商売につとめたかいあって、私は外交に出されるところまでこぎつけた。

     腕だめしはこのときである。私はすべてを投出したつもりで、広い大阪の市中を走り回り、煙突のあるところをみれば石炭の売込みに飛び込んだ。ふろ屋、精米所、ガラス屋から、日立造船の前身である大阪鉄工所、稲畑染工所、尼崎汽船などの大ものにも取組んでいった。長谷川合名会社は間もなく、長谷川忠七商店と鳥居熊太郎商店に分れ、私は鳥居商店の方へ移った。そのころ私は仲仕が話しているのをふと小耳にはさんだ。

     「本庄の毛布会社で石炭が切れてるそうや……」
     私は疾風のような勢いでその毛布会社にかけ込み、みごとに注文をとった。実はしけ続きで安治川筋には石炭がまるっきり入荷せず、私にも品物を手に入れる成算はなかったのだから内心は気が気ではない。しかし幸運にもしけをついて、石炭の第一船がはいってきたのだ。やっと石炭の引渡しができたときのうれしさ、全くほっと肩の荷をおろした。契約高は百斤三十二円で非常な利益になったから、同業者のなかでも「安治川の栄吉は切れる」と一躍名をあげたものである。

     抜けがけの功名もやった。それは大阪港の築港工事に使うしゅんせつ船「大浚丸」一号から十三号までの十三隻に使う石炭二千五百万斤の大入札のときである。石炭屋一同は申合わせて談合値を決め、あらかじめ落札者を置いて、あとで割前をもらう一種の不正入札の方法をとった。ところがいざ入札になって割込んだのが私である。私は入札者の申合せを無視して、山陽の切込み炭百斤を斤三十一円五十銭の正価で入札、全量を落札した。入札の会場ははちの巣をつつく大騒ぎである。仲仕を使って殺してしもたる、とのうわさまでたったが、しょせん勝負は私の勝ちだった。いままでだれにも話したことはないが「栄吉のからふご」で評判をとったこともある。もっともこれはとても自慢にはならず、私のざんげ話だ。

     当時汽船に石炭を売るときには、百斤入りのふごに入れたものである。そして決済のときには使ったあとのからふごの数で計算するわけだ。これに目をつけた私はふごを二重、三重にかさねる手を発明した。つまり百ふごのうち三十ばかりはからっぽなのである。もちろん汽船の火夫は、松島の新地へ連れていって買収してある。しかし結局この手はバレてしまった。というのはからふごの割合いが多すぎ、それを買った汽船が瀬戸内海で石炭が切れてエンコしてしまったのである。だがこんなことが、ある程度通るほど、当時の石炭屋の商売にはいまからみればずいぶんひどいやり口がはびこっていた。私は二十歳。そろそろ色ざんげの材料もつくる年ごろにはなっていた。