レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    奉公先第一号

    兵庫の港にびっくり ぬかみそで女中に返礼

     そのころ播州と兵庫との間を二十銭の運賃で結んでいたのは百トン足らずの蒸汽船である。私は十四歳、明治二十七年の八月のことだった。次第に小さくなって行くふるさとの山をながめながら、「えらくなるまでは帰らんぞ」。私の心は武者ぶるいするほど希望にふくらんでいた。だが淡路島や明石を過ぎて兵庫の桟橋につくと、まず港に林立する帆柱の数にどぎもを抜かれた。港におり立って初めて見る都会の風景に目を奪われ、言いしれぬ心細さにただ立ちつくすばかりだった。ひんぱんな出船、入船。かけ声をかけながらせわしく立働く仲仕たちを、私はうつろな目でながめていた。

    「貞やん、はよゆこか……」
     和助さんにうながされ、夢心地の私はふろ敷包みをだいて、てくてくとあとに従ったが 「あれが三井銀行や、ここが米相場のたつところや」と教えられても、疲れ切った私はうなずくことさえ忘れている有様である。

     奉公先として連れて行かれたのは屋号を座古清(ざこせい)という川西家。川西家は当時すでに一に小曽根、二に座古清といわれるほどの兵庫きっての資産家で、帝国海上火災の代理店をしており、家業としては片手間に石灰問屋をやっている程度であった。だからでっち奉公にきたものの、私の仕事は清ぼん、竜ぼんの二人の子供のお守役ということになった。もちろん無給である。竜ぼんこと川西竜三氏は旧川西航空機の社長になった人だが、その父君の二代目清兵衛氏は日本毛織の創立者として有名な人である。大だんなの先代清兵衛氏も当時はまだご存命で、なかなかこまかい人だったと記憶している。なにしろこの大だんなは石灰の袋をかついで売り歩き、一代で座古清の身代を作りあげた苦労人なのだ。

     いなかからぽっと出の小僧は、朋輩でっちの与吉や乳母、女中たちからいじめられ通しだった。居眠りしている間に顔に墨を塗られて笑い者になったり、返事の仕様が悪いと小言を食ったりした。寒中のふき掃除や早朝の門前掃除で手足はしもやけで赤ぶくれになった。特に意地が悪かったのは備後の笠岡からきていた女中のお米である。私がこっそりあたたかい飯を自分の茶わんに入れようとすると「貞吉っとん、それはお上(かみ)のんでっせ」と奥に聞えよがしにいう。新しく出したつけ物を下の方に入れて「上から取れ」というのも彼女だった。あまりしゃくなので、ある日、仕返しにぬかみその堅いところを練って寝ているお米のしりのあたりにほうり込んでおいた。次の日様子をうかがうと、お米はしきりにしりに手をやって、においをかいでみたり、そわそわしている。私はおかしさをこらえて逃出したが、結局バレてひどくしかられた。

     失敗もよくやった。若だんなに、お房を呼んでこい、といわれたので、あわてて「お房どん、お房どん、若だんなが呼んではりまっせ!」と大声をあげて廊下を走ったら、女中のお静に「貞吉っとん、なにいうてなはんね、ごりょうさんやがな!」とどなられた。気がついてみればお房とは奥さんの名だったのである。

     またある日、奥さんから川西家の親類で「じばんじょう」を借りてくるように言いつけられた。なんだかわからないが、忘れたらたいへんと「じばんじょう、じばんじょう……」とお経のように唱えながら道を急いでいると、途中で犬がつがい合っていた。石をぶっつけておもしろがっているうちに「? ?」。肝心の「じばんじょう」を忘れてしまったのである。仕方なく先方で「あのじばんなんとか……」と口の中でごまかしたが、通ぜず、先方から電話で聞いてもらう始末。そのとき知ったのだが「じばんじょう」とは大きな「ひのし」のことだった。そんな生活の中でも、私は新聞を教科書に勉強はしていた。「おれも大だんなみたいにえろなったるぞ」と生意気にも思い続けていたのだ。

     ごりょうさんの背中をふろで流すのも私の仕事だったが、ある日ふろ場でごりょうさんがいわれた。

     「貞吉や、つらいやろけど、別家するまで辛抱しいや」
     親切な言葉にふっと目頭が熱くなったが、一体別家とはどんな風にしてもらえるのかが気になり出した。そこで私はひそかに調べてみたものである。

     これまで別家した二人の奉公人のうち、友七さんはしょう油屋を、もう一人は米屋を営んでいずれも川西家に納めていた。二人とも二十年も奉公した末がこんな風なのだから、私には別家もたいしたことはないなと子供心にも思えてくる。第一私が国からはるばるやってきたのは商売を覚えるためなのに、子守りばかりさせられている。毎日がいやでたまらなくなってくるのだった。私は有馬道からやってくる畳屋のきわさんに「どっかほかにええ店はないか」とそっと頼んでみた。その後の私を引きずり回した生来の放浪性がようやくこの時分から首をもたげてくるのであった。