レンゴーの歴史 私の履歴書井上貞治郎 女房運 女工代りにお静と結婚 お雪と同じ胸の病で失う 私が段ボールを技術的に完成した明治四十二年の秋もすぎ、冬の訪れを感じられるようになったころ、築地小田原町二丁目の本願寺裏の家に引越した。たしか家賃は十二円だったが、やっと落着いてみると私の手元には葉書を五枚買う金しか残っていなかった。ここでも私は朝の六時から夜の十一時ごろまで、のりと汗にまみれて馬車馬のように働き続けた。 間もなく迎えた明治四十三年の正月、私は二十九歳になった。この年は国内では有名な幸徳秋水らの大逆事件があり、またハレーすい星が現われ、外交面では日本が韓国を併合した年である。 それはともかく、私は心ばかりでもこの年の幸いを祈ろうと、一銭五厘で門松を買って飾り、年賀状を四枚買って、レート化粧品などおもだった得意先四軒にあてて出した。それから五銭でもちを買い、形ばかりの「ぞうに」をひとりで祝って三ヵ日をすごしたものだ。年始がてらにやってきた向かいのばあさんにコブつきの出戻り娘の縁談を持込まれたのもこの正月だった。もちろんこれは断わったが、出戻り娘では正月早々縁起がいいと喜んでいいものかどうか……と苦笑したものである。 ある日鎌倉河岸の光電社へ電球包装紙の注文品を届けにいったところ、主人の所浜次郎氏から女房の話を持込まれた。相手は本所松原町にある質屋の若嫁さんの妹で、お静という二十二の娘である。私は生まれて初めて見合いに出かけた。お静はおとなしく下を向いたきりで顔もよくわからなかったがとにかくもらうことにした。私は「女房をもらえば女工がひとり助かるから安上りだ」とひとりそろばんをはじいたわけである。 三月に結婚して、そのあくる日から女工のおげんさんを断わった。お静はおげんさんの仕事をいっさい引受けたうえ、家事も切りもりし、それこそ女工以上の働きである。しかしお静は半年ほどたって痔(じ)をわずらい、寝込んでしまった。私はやせ細ったお静を背負い病院に連れていったが、その軽さがふと胸にこたえた。痔の方はどうやらなおったが、しばらくすると、お静はまた気分が悪いと言い出した。医者は肺結核だという。環境を変えるため、下谷西町の小さいながらも庭のある家へ引越したり、千葉の療養所へ入れたりしたが病気は悪くなるばかり。一方私は商売が忙しく手が放せない。男ばかりの世帯ではどうすることもできないので、薄情のようだが当時大成中学に通っていた書生の青田をつけて実家に帰すことにした。実家へ帰してからしばらくして、私はお静が死んだとの通知を受取った。お雪を失ったのも胸の病いである。いまならパスやマイシンであるいは助かっていたかもしれない。苦労ばかりかけて、死なせたかわいそうな二人だが、私もなんと女房運の悪い男かとつくづく情けなくなった。こうして私はまたもや元の独身生活にかえった。 下谷西町の店はすでに使用人が五、六人ほどにふえていたが、相変らずの苦闘時代が続いた。後に聯合紙器創立の際、ひと方ならぬ世話になった東京電気(後の東芝)とは直接のつながりはなかったが、下谷根岸の栄立社を通じて多量の電球包装用紙の注文を受けたことがある。これが東京電気との最初の縁故となった。 私は独身生活のさびしさをまぎらすためにバイオリンを習ったりしたが、ときには五十銭玉一つ握り、万一の用意に一円札をたび裏にしのばせて女遊びにも出かけた。洲崎の弁天橋のたもとで、馬肉をさかなにしょうちゅうをひっかけてからいくのだが、帰りを早く切上げるのでだれも気がつかない。近所では「井上さんほど商売熱心なカタブツはない」との評判だったが、なんぞはからん、私はこの五十銭の楽しみをかかさなかったのである。 その後、半年ばかりたって、また所氏の世話で後妻をもらい、二人の男の子をもうけた。私は初めてみるわが子の顔に、父親としての責任を感じ、ますます商売に心身を打込んでいったのである。このため商売も次第に繁盛し、大正二年には二千円の貯金もできるほどになった。私はいつまでも手工業にあまんじるべきではないと、ドイツから巻取り段ボール機械の輸入を計画し始めた。 前のページ 次のページ