レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    聯合紙器創立

    欧州大戦で順風満帆 「ベンゴシ」と間違われて往生

    明治四十五年の三成社工場風景

    明治四十五年の三成社工場風景

     銀座の島田洋紙店主に金を借りたりして、当時の金で三千円の巻取り段ボール機械をドイツから輸入した。もっとも初めはうまく運転できなかったが、苦心の結果なんとか完全にこれを扱えるようになった。こうなるとますます大量生産の成果もあがってくる。事業も順調にはかどり、島田洋紙店への借金は、間もなく利息もつけてすっぱり返すことができた。

     そのころ本町のリーガル商会からベジリン香水半ダース入りの、段ボールによる包装用紙ばこの注文を受けた。私は国産で初めての両面段ボールを使って、見よう見まねの製作にかかり、これを仕上げたが、これが日本でのいわゆるパッキング・ケースの最初のものとなった。

     店員も十数人にふえ、私は「月に一千円以上の品物が売れるようになれば、お前たちにうなどんをおごろう」といってみんなを励ましたものである。

     大正三年七月、第一次大戦が突発、戦乱が進展するにつれて、景気はにわかに上昇した。私の仕事もようやく波に乗り、マツタランプの箱がウラジオからロシアへぐんぐん伸びていった。事業は猛烈な順風に、帆もさけんばかり。躍進また躍進である。大正四年横網町の安田家の裏へ、初めて家を買取り、ここへ工場を移し、大阪に「大阪三成社」を創立、名古屋にも支店と工場を設置した。東京の分工場として川崎工場を建てたのもこのころ。子会社の帝国紙器も創立した。

     それ以後の私の事業は、まずまず軌道に乗ったといえる。もっとも現在までの四十年間には、関東大震災、日本製紙の合併、第二次大戦後の混乱とまだまだ多くの苦難が私を待ちうけていたが、三十歳までに味わったつらさを思えば、むしろ軽いものだった。この四十年間はあまりくわしくやると、多少自慢話めくので、かいつまんでさっと走ることにしよう。

     私は業態を一段と発展させるため、三成社を株式会社組織にしようと考えていた矢先き、東京電気からもすすめられて、大阪三成社、帝国紙器を合わせ、大正九年に聯合紙器株式会社を創立した。聯合紙器の名は、当時東京電気の傍系会社に帝国聯合電球というのがあって、これからとったのだが、どうもゴロが悪く、電話では「ベンゴシ?」などと間違えられて往生した。しかしいまでは聯合紙器という名が段ボールの構成にも通じる気もするので、まんざら悪い名とは思っていない。

     大正十二年の関東大震災では本社工場を焼失したが、その苦境の中で日本製紙を合併、これが一つの契機となって、東京電気との資本関係も一応切れた形となった。震災後は本社を大阪へ移したが、第二次大戦が始まる直前には内地に十二工場、海外でも満州、朝鮮、中国、台湾に二つの分工場、一つの出張所と五つの子会社を持っていた。戦争中には陸軍から東条閣下ご考案の豚血液を乾燥させた粉末で防水したはこを作らされ、海軍からは潜水艦が中身を使用したあと、海中に捨ててもすぐ水を吸って沈むように、ブカブカのはこを作れと命令されるなど陸海軍正反対の注文を受けたりした。

     そして終戦。外地の工場はすべて接収され、国内でも半分以上が焼失した。私は残った工場と従業員たちで、軍から払下げられた一九式梱包(こんぽう)用の原紙を使い衣装ばこを作って売出し、家財道具を失った人々に好評を博したものである。

     私は昭和二十八年には業界視察のため渡米、帰国してからは各工場の復旧と、拡張に没頭した。そして聯合紙器はいま、年間売上げ七十億円、十五の工場と千七百名の従業員を持ち、月間使用原紙八千トン以上の会社に成長した。

     パッキング・ケースは、アメリカではいまや自動車と同様、経済のバロメーターといわれるほどの普及ぶりである。日本でもそうなる日は近かろう。私はすべての品物をみんなパッキング・ケースに入れてみせるつもりだ。

     ゆりかごから棺おけまで。もっとも段ボールのゆりかごはまだ作ったことはないが、棺おけなら戦時中にやったこともあり、戦後も昨年、ある坊さんの生き葬式用に作ってみたことがある。死人に口なしで、燃え心地などあまり確かめたことはないが、きっとぐあいのいいものに違いない。その節(?)にはご愛用のほどを願っておこう。