レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    段ボール完成

    焼いもさかなに祝杯 出資者去り独力でがんばる

     東京の片隅、はまぐり料理屋と「てらし女郎屋」にはさまれた狭い品川本通りを一歩はずれると、目黒川のほとりに本照寺という小さな古寺がある。池田良栄の仲介で荒川、石郷岡、一志の三人の出資者を得た私は、その本照寺の裏にある二十坪ばかりの平屋を月五円で借りた。この家のいちばん奥の六畳の部屋に私が考えた通称「なまこ紙」を作るトラの子の機械を据えたのだが、これが私たちが名づけた三盛舎の工場というわけである。私は二十八歳、この履歴書の最初で書いたように、稲荷おろしの「紙の仕事は立板に水じゃ」のことばもあって、とにかく懸命にボール紙にしわを寄せる仕事に取組んだのだった。

     使用人としては、原紙などの運び役に櫛原万造というメッカチで大酒飲みのじいさんと、私が日給二十銭で雇った亭主持ちの女工、おげんさんの二人。家の中には、くだんの機械のほか、機械のロールをあたためるための七輪二つ、それにかまと、そば屋から来てそのまま「とりこ」になったどんぶり一つというしごく簡単な生活である。

     もっとも機械といっても、波型をきざんだチクワロール二本を、左右二本の木製の支柱にわたしただけのもので、ロールについたハンドルを回しながら、厚紙のボール紙をロールにかませると、しわが寄ったボール紙が出てくる仕組になっている。

     ところがやってみればなかなかうまくいかない。まず、紙のしわつまり段が左右不ぞろいで、出てくる紙が扇形になってしまう。これはロールの左右にかかる力を均等にすれば解決するのだが、これには台座にバネを置いたり、分銅をつるしたり苦心した。

     一方紙についての苦労も多かった。段をつけても風に当ると伸びてしまうのである。始めたのは夏だったが、こんなふうに苦労ばかり続けて二ヵ月たった。
     そして秋の気配も迫ったある日の昼前「出来た」見事に段がそろった製品が出来上がったのである。私は飛上がって喜んだ。うっかりすると「こりゃ、こりゃ」と踊り出しそうだった。こんなに見事な製品を人に見せるのが惜しいと思ったほどである。おげんさんと私は、三合で四銭の「やなぎかげ」を茶わんにつぎ、ひえた焼芋を七輪であたため、それをさかなに祝杯をあげた。「出来た、出来たよォー」私はデタラメの節をつけ、茶わんをたたいて歌い出した。

     そのあとの、のりづけもひと苦労だったが、こうして日本で初めて生まれた「なまこ紙」に製品名をつけるのもたいへんである。弾力紙、波型紙、しぼりボール、コールゲーテッド・ボード……などいろいろ考えた末、私は最もゴロがいい段ボールに決めた。しかしさて売る段になると、またたいへんである。注文がなければ作るわけにいかず私は小さな見本帳を持って外交員に早変り。浅草の深山洋紙店へ二百枚売れたのが手始めだったが、むしろ損害の方が大きかった。

     メッカチの櫛原じいさんは段ボールを束にしたのを荷車に積んでひき、本所、浅草方面の得意先へ届け、帰りに原料の紙を運んでくる。私は朝早く起きて、朝七時までは割引の往復切符を買って、段ボールの大きな荷物を背負い電車に乗る。しまいには荷物が大きいものだから、ほかの客に迷惑になると車掌がおこり出す。たいていの車掌に顔を覚えられてしまい、私の姿を見るとチンチンと急いでひもを引いて車を出してしまうようになった。仕方がないから私は遠くの乗換え場所まで歩いて行って、顔なじみのない電車にまぎれ込むことにしていた。現実のきびしさと、金の尊さを知っていたこともあるが、実際商売の方も赤字続きだったのである。こんな悪戦苦闘のなかで出資者たちはつぎつぎと私から離れていった。荒川など別れぎわに私の着ているどてらや、ふとんまで取上げていったものである。

     しかし私はかえって元気を出した。商売には浮気は禁物!あくまでやりとげよう。私は独立独歩できるのを喜び、別れていった三人の出資者にも心から感謝を捧げた。そして事業名を三盛舎から三成社に改めた。ちょうどこのころ、私が苦心して組立てた機械とその製法が実用新案特許を出願して認可されたので、製品の名も特許段ボールとして市場に出すことになった。