レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    再出発

    忘れがたい二畳座敷 でまかせが決めたなまこ紙

    池田良栄氏(左)と筆者=ハルピンで

    池田良栄氏(左)と
    筆者=ハルピンで

     中屋はどうしたわけか、住込みではなく、そのかわり木賃宿代として日に十銭ずつくれる。こんどこそひとふんばりだと、私は業平橋の下総屋という木賃に泊って、大張切りで中屋に通った。そして片手間に横町のシンガーミシンの外交も引受けた。

     このミシンの外交で五円の金がもうかったので、私は仲御徒町の路地のどんづまりで月九十銭の部屋を借りた。部屋といってもたった二畳である。つまり入口の格子をがらりとあけると、狭い一尺の土間があって、トンと上がったところが私の「お座敷」という寸法だった。

     貸主の老夫婦は唐紙一つ向うの六畳に住んでいる。じいさんは夜になると尺八をふところに家を出ていく。飲食店の門口などに立って尺八を吹き金をもらうのだ。しかしそれだけでは生活が成り立たないので、ばあさんが大阪府知事の名が顧問として載っている「汎愛扶殖会」の帳面を持って寄付金を集めてくる。もちろんインチキなのだが、この寄付金が貧しい老夫婦の生活費の一部になっていたようだ。知事は売名、会はインチキでは寄付をする人もたまったものではあるまい。おまけにばあさんはたいへんながっちり屋で、口げんかの絶え間がない。結局言い負かされて、じいさんは尺八を持って出ていくのだが、私はそのさびしげな後姿をあわれに思ったものであった。

     間もなく私は路地にある富岡紙ばこ屋の注文とりも始めた。なにしろたった二畳とはいえ、帰京以来初めての独立の安息所である。うれしかった。私は心身ともに張切って矢でも鉄砲でも持ってこい、と勢い込んだし、夜は思いっきり手足を伸ばして、のびのびと休んだ。いまから思えば、この二畳の部屋が、私の第二の母の胎内だったのだろう。私はひとりの天地を楽しみ、これからどう踏出せばいいか、香港から帰途の博多丸の船上で誓った成功のスタートについて思いをめぐらした。とにかく一意直往邁進(まいしん)すべきである。ひとより一時間長く働いて、ひとよりいい商品を安く売ることだ。こうすれば金は自然にもうかる。金はもうからないのではなく、人がもうけないのだ。そして天からさずかった福運は絶対に自分のものとすること、つまり「握ったら離すな」。また考えた、私は人に使われるのに適していない、第一、波を打っている世の中で、その波に乗るのは使われていてはだめだと。腕をこまぬいて天井を見上げ、思索を続けていくと、おもしろいほど私の決意はまとまる。この二畳の座敷で考えたことは、いまにいたるまで一貫して変らない。だから私にとって記念すべき、忘れがたい二畳の座敷だったのである。だがさてなにをやるべきか? 私は自分でこしらえ、自分で売ることをやろうと思った。

     こんなとき私はふっと、奉天で知り合った雑司ヶ谷の池田良栄をたずねてみる気になった。彼は当時善隣書院の中国語教師をしており、後には陸軍士官学校の教師にもなった男だ。つもる思い出話をしているうちに、池田が「君は大阪商人だが、なにかおもしろい商売はないかね?」と切り出してきた。なんでも彼の友人に予備の陸軍大尉の荒川という人がいて、恩給や年金でなにかいい仕事をやりたい、と捜しているというのだ。「あるよ、あるとも」私は即座に答えた。しめた私の事業の出資者になってもらえる。あとは口から出まかせで、中屋の店の片隅でほこりをかぶっていた変てこな機械を思い出しながら、ボール紙にしわを寄せる仕事の話を持出したのである。全く「ひょうたんからコマ」だった。池田は「ふん、なかなかおもしろそうだ」と大乗り気である。さっそく荒川と品川に住んでいる石郷岡大尉、荒川の援助者の一志茂敬の三人が出資者となる話が決まったのだ。

     当時日本で作られていたのは、もとはブリキに段をつけるロールにボール紙を通したもので、正式な名はなく一般に「電球包み紙」といわれていた。しかしこれは一枚の紙を山型のジグザグに縮ませただけで、ほとんど弾力性はなく、押えればぺしゃんこになってしまう。しかし馬喰町のレート化粧品などで使っていたドイツ製品は、波型紙をさらにもう一枚の紙にのりづけしてあり、しかも波の型が三角形でなく半円形で、弾力に富むものだった。当時は俗に「なまこ紙」といっていたが、私たちはこの国産品を造ろうと思い立ったわけであった。