レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    再び放浪

    つけ物売りから外交員へ 段ボール機械のヒント得る

     阪大佐太郎と別れて、私はまたひとりになった。そしてどこをどう歩いたのか半蔵門のあたりまできていた。「この土手に登るべからず」と書いてあるお堀の土手に登って皇居を遥拝し、夕暮の景色をぼんやりながめている……。ひとりの救世軍士官が通りかかって声をかけた。

     「ときのこえを買ってくれませんか、一部二銭です」「よし買おう、その代りに君の帽子には世を救うと書いてあるがひとつおれを救うてくれんか?」私は土手をおりて、中国で刷った赤い名刺を差出した。「今夜の宿もないんだ」士官はアーメンとつぶやくように口の中で祈っていたが、やがて自分の名刺を出してその裏に「本所花町箱舟屋」と書いた。「この木賃宿へいけば、悪いようにはしないはずです」。私はただちに士官に教えられた通り箱舟屋を訪れたが、案に相違して剣もほろろのあいさつである。しょんぼりとそこを出たが、私には行先がない。疲れ切ってとぼとぼと歩くうち、出てきたのは上野広小路の教会の前である。私はわれを忘れて教会へはいっていき、信徒にまぎれて後方の席へ腰をおろした。そうして慰めの愛の言葉も聞きたかったが、それよりも足の疲れをいやしたかった。だるい、もういうことをきかぬほど、私の足は疲れ切っている。初めのうちは説教も耳にはいったが、綿のような疲労が全身をひきずり込むようで、いつかぐっすりと眠りこけてしまった。

     どのくらいたったか、私は無情にもたたき起された。賛美歌の声に送られながら、私は再び夜の町に追い出されたのである。四月には珍しい寒い夜だった。空には星がたくさんまたたいていた。仕事を選り好みするときではない。私は本所清水町十七番地の桜井つけ物店で働かしてもらうことにした。

     仕事というのは背中に桜の印のある古はっぴを着て、天びん棒をかつぎ、たくあん、福神づけ、からしづけなどを売り歩くのである。この店はかん詰もつくっていたので、夜は夜でかん詰用のナタ豆まできざまされる。

     しかし私がいちばん困ったのは「エーつけ物やつけ物……」の売り声がまるきり出ないことだった。初めのうちは小さい声で回っていたが、それこそ落語にある「与太郎のかぶら売り」みたいなもので、さっぱり売れない。「これではならじ」と、ある日家のまばらな日清紡績裏の空地に立って、声をふりしぼって売り声の練習をした。するとこれを聞きつけたのか、混花節語りの前座だという若い男が出てきて、二人が競争で声を張りあげたものである。しかし練習してもだめなものはだめである。声を張りあげるほど、つけ物がくさるように思えて、われながら情なかった。そんなありさまだからつけ物はてんで売れず、ここもクビ。

     六月になるというのに、またもや満州以来のぼろ冬服に着替え、しおれ切って店を出ようとすると、出戻り娘のお光ちゃんが物かげから手招きしている。そして私の手に電車の片道券をそっと握らせてくれるのだった。行暮れて人の情が身にしみる。彼女のほのかな好意は、私の心に通じるものがあった。押しいただいたものの、切符を使ってしまうのが惜しく、私はしとしとと降る梅雨の町へ、はだしで歩き出した。

     ところが浅草小島町まできたとき、交番の巡査が私を呼んでいる。はだしで歩くのは罰金だというのだ。「ぞうりでも買ってはけよ」さすがに気の毒そうにいってくれたが、それを買う金もない。情なかった。はだしの足には六月の雨さえ冷たい。くちびるをかんでこみ上げてくるものをこらえ、ただ歩いた。そして御徒町二丁目までくると、中屋という店ののき先きに、「男入用」と書いたかまぼこ板がぶら下がっている。私のはだしの足は自然にその店へ吸い込まれた。結局私はここで雇われた。中屋は紙ばこ道具、大工道具などを売っている店で、私は外交員として使われることになった。この店の片隅で、小さな綿繰り機械のようなものを見かけたが、この機械のイメージが、後年私が段ボール機械を工夫するときの「ひな型」になったのである。