レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    内地へ帰る

    悪党佐太郎も顔負け もらった十銭で人生再出発

     「ちょいとごめんなすって……」
     私はふすまをあけて両手両ひざをつき、見よう見まねの渡世人の仁義をよそおい上目づかいにいざり寄った。

     「まっぴらごめんなさっておくんなさい。わたしはとなり座敷のものですが、若いお娘さんはどうなされましたか?……それはともかく私は、いま非常に進退きわまっているんだが、はなはだぶしつけながら、私の体を質にとって内地へ連れて帰ってもらえないでしょうか。もし願えればあなたのお仕事もわかっていることだし、手助けでもしてご恩に報いることもできると思っています。聞けばあすおたちのようだが、ひとつ連れて帰ってくれませんか」

     唐突の侵入者のことばに相手は驚いた様子だが、こっちも必死だった。ぐいと相手の目を食入るようににらんで私は返事を待った。さすがの悪党もすねに傷持つ身、私の気迫に押されたのか、しばらく無言で私の顔をねめつけていたが、やがて「よろしい。お頼み通り引受けよう」とあっさり承知してくれた。

     計略は図に当った。私はほっと深い息をはき、肩の力を落した。あまり簡単に引受けてくれたので気の毒になり「大阪には小さいながら自宅もあります。帰れさえすれば家を売払ってでも金は返します」と出まかせの気休めをいってしまった。私に見込まれたこの人買いの男、阪大佐太郎は、新潟県の生れであった。

     一昨年、妻を連れて新潟県まで行き身寄りの人でもいればお礼の一つでもと思ったが、どうやら阪大佐太郎は偽名だったらしく、見つからなかった。で帰りに福井の永平寺へ立寄り、心から私を救ってくれたこの悪党の追福を祈ったものである。

     とにかく阪大佐太郎は六、七十円ほどの宿賃を払い、横浜までの二十二円五十銭の船賃も出してくれたのだ。帰りは阪大との二人連れである。私たちは博多丸の特別三等船室に納まって思い出深い中国をあとに、いよいよ日本への帰路についた。足かけ四年の大陸放浪生活であった。船が大陸を離れていくにつれ、私は初めて自分を取戻したようにわが身を振返り、将来を考えた。朝鮮、満州、中国にわたる流浪の生活は無謀というより、むちゃくちゃであり、思い返せばわれながらぞっとする。それにこの異郷の生活によって得たものは、ただ年をとったことだけだった……と。海外へ雄飛して故国に錦を飾るのを夢みた私だが、いまやその夢はこなごなにくだけ、私はただ心身ともに疲れ、元のもくあみの裸一貫の生活に帰るのだ。金がないからこそ、人買いの悪党をも恩人とせねばならない。

     「ああ金がほしい。それもまじめに働いてもうけた金がほしい……」
     まじめに働こう。これまでのような放浪生活とはきっぱり縁を切って地道に暮そう。いまから思えば大陸生活で私が得た、たった一つのものはこの決心だったかもしれない。そして私は「金なくして人生なし」という私なりの哲学を持つようになった。

     こうなると妙なもので、阪大に「大阪へ帰れば家がある」とうそをついたのが気になり出した。あす神戸へ入港するという日、苦悩を重ねた末、やり切れなくなって私は阪大に事実を打ちあけ謝罪したのである。真の裸一貫から清い成功への一路を突進しようと決心した私だが、そのためには親類縁者との交渉を断ち、いっさいの虚飾を捨てた生活が必要である。大阪もいや、神戸、横浜もいや、知った人が一人もいない東京で働こう、また同じ働くなら人のいちばん集まったおひざもとの東京で働こうと私は考えた。

     阪大を誘って東京へ着いた。といって彼と離れれば、そのときから金のつるを失ってしまう。ああでもない、こうでもないと東京の町を阪大にくっついて離れずにいたのだが、これにはさすがの悪党もあきれ、ほとほと閉口してしまったらしい。あるいはそんな私が薄気味悪くなってきたのかもしれない。ある日「いつまでも東京にいても仕方がない。おれは国へ帰るから、あとはお前でどうなとしなよ」と言い置いて、私に十銭玉一つと、古い赤げっとをくれたまま、そそくさと私から立去っていった。

     「この十銭から私の再出発が始まるのだ」
     忘れもしない、それは四月十二日だった。上野公園では咲き誇る桜の下で、花見客がうかれる陽春を、私はうすぎたない冬服姿で、もらった十銭玉が汗をかくほどにぎりしめ、赤げっとを小わきに抱いて、とぼとぼと歩き出した。