レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    脱線伊勢参り

    汽車賃が足りず横浜へ たたった二円の仕込みづえ

     畳屋のきわさんが世話してくれたのは、神戸三の宮の松浦有平という洋紙店の住込み店員だった。ここはおもに外人の経営している工場の紙を扱っていた。細君は混血児で目の色の変った子供がおり、主人は病身、なんとなく活気のない店だった。私は十五歳になっていたが、この紙を扱った最初の経験は、後年私が段ボール創業の際、非常に役立った。しかし店に活気がないので働く私の張合いも抜ける。第一、ボール板紙の出し入れは肩が痛くとてもつらい。間もなくいや気がさした私はこの店も出ることにし、一人で口入屋へ出かけていった。

     そこで見つけたのは神戸栄町の熊谷回漕店である。この運送屋では幹部は通勤なので、住込んでいるのは若い店員ばかり。だから夜ともなれば、えらい人のいない気安さから向いの店のうなどんなどをかけてトランプのバクチをやる、女遊びはする乱れ方であった。「こんなところに長くいてはいかん」、私は思案する日が多くなった。

     四月二十一日はお大師参りに当る久しぶりの休日だった。私は摩耶山に登り、帰り道、おりからのなぎに油を流したような神戸港をながめて考え込んだ。

     「よし、ひとつお伊勢参りに出かけてやれ」
     そう決めるとかえって心ははればれとしてきた。おあつらえ向きに国の母から二円の金が届いたばかりでもある。多少店には悪いとは思ったが、私はそのまま神戸を飛出していた。

     汽車で奈良に向かい、若草山の下の売店でついふらふらと仕込みづえを買った。当時の青年たちを支配していた壮士気取りの気風は、やはり私にもあったわけだ。値段は大枚二円。それから桃山から京都へ出て、四日市行きの汽車に乗込んだ。汽車はそこまでしかなかったのだ。だが四日市に着いて考えてみると、あの仕込みづえの買物のおかげで、伊勢参りしたところで神戸へ戻る汽車賃が足りない。しかしここから横浜までの船賃なら残っていると気がついた。

     「そんならいっそお伊勢参りはやめて東京へでもいってやろう」
     私はあくる日にはもう横浜行の汽船に乗っていた。

     もちろん横浜は私にとって初めての土地である。波止場にあがって居留地を抜けその豪勢なのにびっくりした。都会の騒音、めまぐるしい人の行き来の中へ私は夢心地ではいっていった。私は都会のあらゆる構成分子からの無言の威圧をはねかえすように胸を張った。だがまるきり金はない。知っている人もいない。私は町を歩きながら、片っぱし桂庵(けいあん=口入屋)ののれんをくぐったが、保証人がなく保証人を頼む二円の金の持合せもないのだから軒並みに断わられた。それでも最後の店では多少気の毒にもなったのだろう。

     「国元に身元を問合わせてみるから、その間ここにいてみたらどうかね」といってくれた。こんなありがたい話はない。私はそのまま当分番頭代りの食客という奇妙な資格でそこに居座ることになった。いよいよ小づかいに困り、しめていた角帯を持って質屋へいき「五十銭貸してくれ」といって断わられたのもこの時分のことである。

     ある日「小僧をひとり世話してほしいんだが……」と翁町二丁目の大島という活版屋の主人が店を訪れた。店番をしていた私は「へい、ちょうどよい男がおりますから、すぐさしむけます」と答えながら、そっと奥をのぞくと主人は昼寝の最中である。そのままこっそり口入屋を抜け出し、聞いておいた大島活版店に足を向けた。

     「ずいぶん早いじゃないか。それで当人を連れてきてくれたかい?」
     「いえ、そのちょうどよい男とは私のことなんで……」

     あっけにとられている主人に横浜へきてからの事情をそっくりうちあけたが、私の率直な言い方が気に入ったのか、すぐ住込みを許された。しかしここも長くは続かなかった。インキにまみれて働くのは不満ではないが、輝かしい成功を夢見る自分がこんなところに埋もれて暮すのはたいへんな道草を食っているような気がし始めたのである。

     出入りの紙くず屋に「もう少し給料のええとこないやろか?」と持ちかけると「そうだな。月三円出すといってる支那料理屋があるが、行ってみるかい」
     月給三円といえば飛切り上等なので、私は早速承諾した。その店の名前は聘珍楼(へいちんろう)といって、ごてごてと色看板が並んでいる南京町の中にあった。