レンゴーの歴史

  • 私の履歴書
    井上貞治郎

    満州放浪

    ピストル持って金捜し はては上海から香港へ

     旅順へ着いてから間もなく、例の豆本美文之資料のとんでもない効能がさっそく現われた。私は谷口組の下請けをやっている菊本氏の家に厄介になりながら、無給で苦力(クーリー)の監督などを手伝わされていたが、ある日、谷口組の親分が「看板の下書きをしろ」というのである。どうやら私の書いた寄せ木細工の大美文のことが親分の耳にはいったらしい。つまりあれほど文章がうまいのなら、学があるに違いない、したがって字も上手だろうとの至極明快な三段論法なのだ。親分は中肉中背、眼光は鋭く馬賊の頭目みたいな男。赤裏の黒いマントなど羽織って、えらく威勢がいい。その直接のお声がかりというので、私は恐る恐る前へ進み出た。

     みると看板の場所はロシア風の倉庫を改造した高さ百尺もある事務所の壁だ。私はしり込みしたが、親分は「書かないのなら出ていけ」である。半泣きだった。「南無三宝」私はどうにでもなれと腹をきめ目もくらむ木組みに登って、命がけで書き上げたが、当然の結果として、ひどくゆがんで変てこな字になってしまった。

     「ヘタくそじゃな」さすがの谷口組の親分も顔をしかめたが、別に書直せともいわなかった。しかもあとでペンキ屋がごていねいにも、私の字のままに塗ったものだから、文字通り恥の上塗りである。だから私の珍妙な字はかなり長い間、そこにさらし物になっていた。

     間もなく、私は二十六歳の正月を菊本氏の家で迎えた。明治四十年のことである。私はふと思いついて牛肉の行商を始め、これが案外当った。そして旅順の八島町にパラックながらも一軒の家を建て、こけおどしにビールの空びんなどをずらり並べた菊屋洋行という雑貨店を始めたのである。私は大いに気をよくして働き続けたが、独身生活の悲しさ、地味な暮しができず、三、四人の居候をかかえる始末。たちまち酒屋の払いだけでも七十円ばかりためてしまうありさまである。

     ちょうどそのころ、満州馬賊はなやかな時分で、私たち若い者は逸見勇彦、樋口勇馬などの豪傑連の話に血をおどらせたものであった。私もその一人。仕入先に借金があるのも 「たいしたこたぁない」と笑い飛ばし、居候どもと鉱山師の弟である英組の広沢を引きつれて、金鉱を見つけに満州奥地へ飛び出したのであった。

     まるでドン・キホーテである。かりに金鉱を見つけたとしても、どうしようとのあてもなかった。しかし大陸放浪熱にうかされた私たちは勇み立っていた。まず大連でひそかにピストルを買い、鴨緑江をみて安東県から徒歩で九連城、寛甸(かんでん)を通り、懐仁地方へと進んでいった。

     満州の野は春だった。柳は芽をふき、楡(にれ)の木立の芽もほころび、遠くからながめると紫のかすみがかかったようである。思いがけぬ谷間に満人部落があり、白い草花がまっさかりだ。また岡の上に高い望楼のある城壁をめぐらせた町があり、顔に刀傷のある男がぬっと出てくる。

     こんな間に中国旅館に二週間ばかり泊ったが、ある夜とうとう本物の馬賊の襲撃を受けてしまった。

     馬賊は鉄砲をうちながら宿の周囲をかけ回ったが、われわれに金がないのを知ると、やがて立去った。こうして冒険を続けながら、めざす二道河子(あるどうこうし)の鉱山にたどり着いた。しかしどうも廃鉱らしい。ともかく金鉱とおぼしきものを採掘し、草河口を回って全くの無一文で三週間ぶりに旅順へ帰ってきた。

     あとで分析してもらうと、二道河子の鉱山は金鉱でなく銅鉱で、しかも含有量がきわめて少ないものとわかった。しかし冒険旅行に満足していた私は、それを聞いても別段がっかりもしなかった。鉱山から帰ってきたものの、私の山っ気と放浪癖はいっこう収まらなかった。いちど大連にわたってから旅順に舞戻り、再び牛肉の行商を始めながら化物屋敷で野良犬と二人(?)きりで同居したこともある。奉天の掘立小屋に住んで亜炭を売り、鉄嶺では金がなくてとうふばかり食っていた。大工の細君と仲良くなり、逢引きがばれて、鉄嶺を逃げ出し上海に流れた。上海で、通称神戸の小母さんという女顔役の世話にもなった。上海で東亜同文書院の向いの支那そば屋に雇われ、当時名声をはせた島貫兵太夫のチ ベット入りの一行に加わろうとし、一足違いで間に合わず、残念でならなかったこともあった。

     ええい! 行けるところまで行け!私はあり金をはたいて香港行きの汽船に乗込んだ。この船の中で、私は初めて人買いの阪大佐太郎(ばんだいさたろう)に会ったのである。