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1920年~基盤の確立


1920年(大正 9) 聯合紙器株式会社創立(本社は東京、工場は東京・川崎・名古屋・大阪)
1923年(大正 12) 日本製紙(大阪)を買収し、千船工場とする。関東大震災で東京工場焼失
1936年(昭和 11) 東洋一の板紙・段ボール箱一貫生産工場完成(大阪)
1945年(昭和 20) 戦災で国内6工場焼失、全海外資産接収される

写真4 稚蚕飼育函と蚕種輸送函
写真4 稚蚕飼育函と蚕種輸送函

写真5 「米国総合輸送規定ニ適合セル輸出用陶磁器包装状態」
写真5 「米国総合輸送規定ニ適合セル輸出用陶磁器包装状態」

写真6 ビール輸出用ケース
写真6 ビール輸出用ケース

写真7 冷凍鮭ケース
写真7 冷凍鮭ケース

写真8 淀川工場全景絵図
写真8 淀川工場全景絵図


ある日、井上の仕事ぶりを認めた東京電気の新荘吉生社長から「三成社を株式会社にしないか。するなら応分の支援をしよう」と声がかかりました。その勧めを受け、三成社、子会社2社、三成社と共同で電球用段ボールを納めていた栄立社と東紙器製作所の五社合併により「聯合紙器株式会社」を設立、1920年5月2日(日曜日)に新会社の創立総会が開かれました。この日は、各種工業の新増設が相次ぎ工場労働者が急増していた時期でもあったことを背景にわが国最初のメーデーが東京・上野公園で開催された日でもありました。「聯合紙器株式会社」は資本金200万円・従業員126名で、本社は東京市本所区太平町にありました。社長には新荘氏が就任し、井上は筆頭常務として日常の経営に当たることになりました。

 

わが国の工業化の進展にともない、「段ボール事業」も発展の緒に就きました。新会社設立から3年後の1923年、井上は大阪にある板紙メーカー・日本製紙を吸収合併、段ボール・段ボール箱の製造工程を併設し、国内初となる板紙から箱までの一貫生産工場を建設する計画を立てました。これに対して、多額の買収資金を必要とするために社内外に多くの反対論が巻き起こりましたが、井上はこうした障害を乗り越えて合併を成立させ、事業拡張にかける意気込みを内外に示しました。

 

この合併から1ヵ月後に関東大震災が発生、東京の本社と工場は壊滅し、被害は30万円におよびました。しかし後年、「あの合併無くして今日のわが社無し」と井上が述懐したように、大阪の一貫生産工場がその損失をカバーしました。震災後、井上は早急に東京工場を再建、1926年本社を大阪に移すとともに、新荘社長逝去後5年間空席だった社長の座に就きました。

 

大正時代の末期、段ボール箱は、東では「マツダランプの箱」、西では「福助(足袋)の箱」と愛称され、新聞の経済欄に「紙箱が木箱より強い」と報じられたりするなど、着実に評価が高まっていきました。また、段ボールを応用した「稚蚕(ちさん)飼育箱」(写真4)が養蚕農家で重宝されヒット商品となりました。昭和に入ると、缶詰、陶磁器(写真5)、ビールなどの輸出用外装箱(写真6)、冷凍鮭の包装箱(写真7)などを開発し、段ボール箱は梱包・輸送・保管に欠かせない包装資材と認められました。

 

旺盛な需要に応えるため、大規模な一貫生産工場の建設が構想され、1930年から7年がかりで淀川工場(大阪市福島区大開)が完成しました。(写真8)発電装置、抄紙機2基、段ボール箱製造機など総てを最新鋭の設備で構成、抄紙機は当社技術陣が設計し、段ボール工場の近代的レイアウトも当社が独自に考案しました。欧米の見学客から「東洋の日本にこんな工場があったのか」と驚嘆の声があがったほどでした。

 

1936年には、筆頭ユーザーの東京電気から「段ボール・段ボール箱の自社製造計画を実行に移す」と通告されるという難問が生じましたが、東京電気と資本提携して埼玉県川口市の紙器工場と東京・葛飾の製紙会社を譲り受けることでこの難問を解決しました。

 

この頃から朝鮮の京城、台湾の台北、満州の奉天、中国の上海と天津に工場を構えましたが、やがて太平洋戦争による戦時体制の下で軍需生産に追い込まれることになりました。1945年、国内7工場が米軍の空襲によって焼失し、また朝鮮・台湾・中国所在の全資産が接収されました。